新月配列 vs 新下駄・薙刀式 — 同時押しとの差は「同時押しの重さ」次第で消える
同時押し方式の新下駄・薙刀式と、順次打鍵の新月配列を統一ベンチマークで比較しました。既定条件では新下駄が 1 位ですが、同時押し 1 回のコストを重めに見積もると順位が逆転します。両者の差が確定しない理由と、順次打鍵の実務的な利点を整理します。
訂正(2026-09-25): 初出時、薙刀式に「ortho/split キーボード」「40% キーボード」が必要、新下駄が「無変換・変換キー」を使う、と書いていましたが誤りでした。薙刀式は 30 キー + スペースで標準キーボードで動き(公式マニュアル v17)、新下駄のシフトは中指・薬指の文字キーです。該当箇所を書き換えました。数値は変更していません。
追記(2026-10-15): 薙刀式 JIS 版の版を v15 と書いていましたが、評価に使った定義は v14(集大成版)でした。数値は変わりません。
追記(2026-10-17): 現行の v9.0(2026-10-17)は、同じ評価器・同じ公開コーパスで 1.891(ベンチマーク記事の表の v8.6 と月配列 2-263 の間で、同じ群)。
追記(2026-10-18): 現行の薙刀式 v17 も同じ条件で測りました。JIS 版は 1.842、ortho 派生版は 1.805 で、表の旧版(1.851・1.811)よりわずかに速いものの、有意差はありません。表は評価時のままです。
結論から
| 方式 | 打鍵方式 | ハード要件 | キー数 | 時間/かな(β=0.6) | β=0.3 | β=1.0 | 順位範囲 | SFB |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 新下駄 | 同時押し | 数字段・JIS 記号キー | 39 | 1.743(1 位) | 1.648 | 1.871 | 1–14 位 | 9.9% |
| 薙刀式 v15 (ortho) | 同時押し | 標準(3 キー同時押し) | 30 | 1.811(4 位) | 1.671 | 1.998 | 1–24 位 | 13.5% |
| 新月 ANSI30 | 順次 | ANSI 30 キー | 30 | 1.815(5 位) | 1.815 | 1.815 | 2–14 位 | 3.7% |
| 薙刀式 v14 (JIS) | 同時押し | 標準(3 キー同時押し) | 29 | 1.851(8 位) | 1.706 | 2.044 | 4–26 位 | 13.5% |
| 新月 v8.6(評価時の版) | 順次 | 標準(ANSI) | 30 | 1.887(12 位) | 1.887 | 1.887 | 6–18 位 | 4.8% |
この 5 つはすべて同格グループの中にあります。 順位は「同時押し 1 回が単打何回分の時間か」という 1 つのパラメータで入れ替わります。
薙刀式は ortho 版が v15、JIS 版が v14(集大成版)の定義で評価しています(どちらも eswai keyboard_analyzer 収録の定義)。現行は v17 ベスト版(2026-06-29)で、未再測定です。(2026-10-18 追記: その後 v17 も測りました。JIS 版 1.842、ortho 派生版 1.805。ベンチマーク記事の追記を参照)
同時押しの重さ(β)で順位が変わる
統一ベンチマーク では、同時押しを 1 動作として扱い、そのコストを「最も重いキーの労力 + β ×(キー数 − 1)」で計算しています。β は 2 キー同時押しが単打の何回分に相当するか を決めるパラメータです。
| β | 2 キー同時押し = 単打◯回分 | 1 位 | 新下駄 | 薙刀式 ortho | 新月 ANSI30 |
|---|---|---|---|---|---|
| 0.3 | 1.3 回分 | NICOLA(1.626) | 2 位 | 3 位 | 7 位 |
| 0.6(主表) | 1.6 回分 | 新下駄(1.743) | 1 位 | 4 位 | 5 位 |
| 1.0 | 2.0 回分 | 月見草(1.804) | 5 位 | 22 位 | 2 位 |
順次打鍵の新月は β の影響を受けないので、値は 1.815 のまま動きません。一方 新下駄は 1.648〜1.871、薙刀式 ortho は 1.671〜1.998、薙刀式 JIS は 1.706〜2.044 と大きく動きます。 β を軽く見積もれば同時押し勢が上、重く見積もれば新月が上に来る、という関係です。
なぜ β を決められないのか
「2 キー同時押し 1 回が単打何回分の時間か」をミリ秒単位で直接計測した研究は、文献調査でも見つかりませんでした。
近傍の知見はあります。
- 先行キーが反対の手で打たれた場合、同じ手より速い。16.8 万人の実測(Dhakal ら, CHI 2018, DOI: 10.1145/3173574.3174220)では、その差はタイピストのクラスタにより約 9〜19 ミリ秒、大きくても 30 ミリ秒程度と報告されています
- 同じ手の中の 241 種類の 2 連続キーで、連接ごとのコストが大きく異なる(İşeri & Ekşioğlu, Int. J. Industrial Ergonomics 48, 2015, DOI: 10.1016/j.ergon.2015.04.006)
- 同時打鍵を 1 アクションと数えた総アクション数では、薙刀式・新下駄・シン蜂蜜小梅が 0.97、親指シフトが 1.0(大岡俊彦氏の計算、2026-05)。ただし同氏自身が「高速打鍵しない前提の、楽さの指標」と限定しています
いずれも「同時押し 1 回 = 単打何回分」の直接の答えではありません。この空白がある限り、新下駄・薙刀式と新月の順位は決まりません。 β を 3 通り振っているのは、この空白を隠さないためです。
同指連続では新月が有利
同時押し方式は打鍵数を減らせる一方、同じ指で連続して打つ割合(SFB)が高くなります。
| 方式 | SFB | 打鍵/かな | ホーム段比率 |
|---|---|---|---|
| 薙刀式 | 13.5% | 1.16〜1.20 | 39.5% |
| 新下駄 | 9.9% | 1.26 | 61.5% |
| 新月 ANSI30 | 3.3〜4.6% | 1.36〜1.39 | 58.8〜61.2% |
| 新月 v8.6 | 4.8% | 1.34 | 55.7% |
新月は打鍵数が多い代わりに、同指連続が薙刀式の 1/3、新下駄の半分以下 です。「打鍵回数は多いが 1 打あたりが軽い」という設計で、結果として推定時間が同じ帯に収まります。
同時押し判定が要らないという価値
速度とは別に、実務上の差があります。なお新月配列も導入には設定(macOS: Karabiner-Elements / Windows: Google 日本語入力のローマ字テーブル / Linux: hazkey)が必要なので、「ソフト不要」ではありません。差は次の点です。
同時押しには判定ウィンドウが要る
同時押し方式は「2 つのキーが同時に押されたか」を判定するために、時間のしきい値(判定ウィンドウ)を持つソフトかキーボードファームウェアが必須 です。そして、
- 打鍵が速すぎると、順次に打ったつもりのキーが同時押しと判定される
- 遅すぎると、同時押しが 2 つの単打になる
- しきい値は個人差があり、体調や疲労でも変わる
という調整が発生します。順次打鍵は キーを押した順序だけで決まる ので、この調整が要りません。新月配列は IME のローマ字テーブル(かな → キー列の対応表)の差し替えだけで導入でき、キーイベントの時間を扱う層に触れません。
ハード要件
| 方式 | 必要なもの |
|---|---|
| 新下駄 | 39 キー。数字段と JIS 配置の記号キー(@ など)を使う。シフトは中指・薬指の文字キーで、無変換・変換は使わない(作者 kouy 氏の解説) |
| 薙刀式 | 30 キー + スペース(かなに使うのは 27 キー)。要件は「3 キー以上を同時に認識できるキーボード」のみ(公式マニュアル v17) |
| 新月配列 | 標準 ANSI キーボードの英字 3 行 30 キー。同時押しなし。「」は IME 既定の [ ] |
薙刀式は標準キーボードで動き、キー数は新月と同等です。 この 3 つでハード側に差があるのは、新下駄が使う数字段と JIS 記号キーだけです。順位の差は装備ではなく、同時押しをどう重み付けするか(β)で決まっています。
どちらを選ぶか
| こういう人 | おすすめ |
|---|---|
| 同時押し(3 キーロールオーバー)に抵抗がなく、かなを最少のキーに収めたい | 薙刀式 |
| JIS キーボードで、数字段まで使ってよい | 新下駄。既定条件では 1 位です |
| 同時押しの判定調整をしたくない / 打鍵速度にムラがある | 新月配列(順次打鍵) |
| 濁音・半濁音・小書きを 1 つの規則(清音 + ゛)で済ませたい | 新月配列 |
| 複数の環境(会社 PC・ノート・外付け)で同じ配列を使いたい | 新月配列または薙刀式。どちらも標準キーボードで動きます |
速さで選ぶ理由はどちらにもありません。 このデータで言えるのは「同格グループの中で、打鍵方式と規則の好みで選べばよい」ということです。
データと再現方法
数値は日本語入力 56 方式の統一評価(2026-09-13 実施)から引用しています。
- 評価器: 統一評価器
evaluate.py。時間モデルは Rust 実装(shingetsu_rs/src/model.rs)と同一。2026-09-25 時点で評価器・配列定義・結果データは未公開 - 同時押しの扱い: 1 動作として扱い、コスト = 最も重いキーの労力 + β ×(キー数 − 1)。β = 0.3 / 0.6 / 1.0、主表は 0.6
- コーパス: 公開 150,024 かな(青空文庫『こころ』『坊っちゃん』+ Wikipedia 10 記事)。私的 91,875 かなで対照
- 信頼区間: 40 チャンク × 200 回ブートストラップの 95%
- 順位範囲: 重み 5 セット × β 3 通り = 15 条件での最良〜最悪順位
- SFB・交互率は、本モデルの「動作間の遷移」に対する比率(前置シフトも 1 動作として数える)
方法の全体像と全 56 方式の結果は 日本語入力 56 方式ベンチマーク にあります。
新月配列を気に入ったら、ぜひ広めてください 🌙