日本語入力 56 方式を同じ物差しで測った — かな配列ベンチマークと有意差の壁

月配列・新下駄・薙刀式・親指シフト・JIS かな・ローマ字 17 配列を含む日本語入力 56 方式を、同一の時間モデル・同一コーパスで評価しました。統計と重み感度の両方で越えられる差だけを「壁」として引いた結果と、新月配列の位置を公開します。

この記事の結論

日本語入力の「どれが速いか」は、方式ごとにキー数もハード要件もバラバラなため、まともに比べられていませんでした。そこで ハード制約を一切かけず(JIS の余剰キー・親指キー・ortho/split を含む)、日本語入力 56 方式を 同じ時間モデル・同じコーパス で評価しました。

分かったことは 3 つです。

  1. 上位のかな系はすべて同格。新下駄・親指シフト NICOLA・月見草・薙刀式・新月 ANSI30・新月・月配列 2-263 などは、95% 信頼区間と重み感度の両方を見ると順位を確定できません。ハードを解禁しても、新月配列を統計的・モデル的に有意に超える配列は見つかりませんでした。
  2. かな系とローマ字系の差は 15% 以上。ローマ字は配列を変えても(大西・DvorakJP・短縮符号)この差を埋められません。
  3. 新月配列は JIS 余剰キーも親指キーも使わずに第 1 群にいます。標準 ANSI キーボードの 30 キー・順次打鍵(同時押しなし)だけで成立する方式としては、ハード拡張を要する配列と同じ帯に入る数少ない例です。

「日本最速」でも「1 位」でもありません。「同格グループの中にいて、しかも一番安い装備で入っている」 というのが、このデータから言える正確な表現です。


1. どう測ったか

時間モデル

打鍵 1 回ごとに「キー労力 × 遷移コスト」を積算し、かな 1 文字あたりの推定時間に直します。

要素
キー労力 E(ホーム段・人差指/中指)1.0
小指×1.6
上段+0.4 / 下段 +0.5 / 内側列 +0.5
数字段・周辺キー(- [ ] など)2.2
遷移 T(左右交互)×0.9
同指連続×1.6
同手(別指)×1.1
はさみ打ち+0.4
加算スキップグラム同指ペナルティ、指別負荷・左右差ペナルティ
  • 前置シフトは 1 打として数えます(☆ → 文字 は 2 打)。
  • 同時押しは 1 動作とし、コスト = 「最も重いキーの労力 + β ×(キー数 − 1)」。β は同時押しの重さで、β = 0.3 / 0.6 / 1.0(2 キー同時押しが単打の 1.3 / 1.6 / 2.0 回分)の 3 通りを回し、主表は β = 0.6 を採用しました。

統計とモデル感度

  • 信頼区間: コーパスを 40 チャンクに分割し、200 回のブートストラップで 95% 信頼区間を出しました。
  • 重み感度: 重みセット 5 通り(既定 / 同指 2.0 / 交互 1.0 / 小指 2.4 / キー労力を平坦化)× β 3 通り = 15 条件で順位を取り直し、最良順位〜最悪順位の幅を「順位範囲」として併記しました。
  • 「壁」の定義: ある境界の上側にある全配列が、下側にある全配列に対して (a) 95% 信頼区間が重ならず、かつ (b) 15 条件すべてで順位が上 のとき、そこに壁を引きます。壁で区切られた区間を同格グループとします。

この定義は意図的に厳しくしてあります。「たまたま既定条件で 0.01 速い」を勝ちと呼ばないためです。

コーパス

用途内容規模
主表(日本語)青空文庫『こころ』『坊っちゃん』+ Wikipedia 10 記事150,024 かな
対照(日本語)私的コーパス(内容非公開)91,875 かな
主表(英語)Pride and Prejudice + Wikipedia 2 記事200,001 字

記号「」と ゔ は打てない配列があるため、公平のため全配列でコーパスから除外しています。


2. 日本語ランキング(上位 20)

推定時間/かな。小さいほど速いという指標です。絶対値に物理的な意味はなく、方式間の比だけを読んでください。

#方式打鍵方式ハード要件キー数時間/かな95% CIβ=1.0打鍵/かな順位範囲
1新下駄同時JIS 余剰キー391.7431.731–1.7601.8711.261–14
2親指シフト NICOLA親指同時JIS 余剰キー351.7561.745–1.7671.9301.411–23
3月見草順次JIS 余剰キー311.8041.796–1.8111.8041.231–6
4薙刀式 v15 (ortho)同時ortho・split301.8111.799–1.8211.9981.201–24
5新月 ANSI30(で 単打)順次ANSI 30301.8151.811–1.8181.8151.382–14
6新月 ANSI30(ぶ げ 単打)順次ANSI 30301.8241.818–1.8321.8241.363–12
7新月 ANSI30(効率)順次ANSI 30301.8251.821–1.8291.8251.393–17
8薙刀式 (JIS)同時40%291.8511.841–1.8802.0441.164–26
9飛鳥 123親指同時JIS 余剰キー371.8561.836–1.8822.0591.343–27
10新 JIS順次JIS 余剰キー341.8741.868–1.8831.8741.263–11
11朧月順次JIS 余剰キー321.8821.862–1.9071.8821.295–21
12新月 v8.6(現行)順次ANSI(周辺キー)321.8871.879–1.9001.8871.346–18
13月配列 2-263順次JIS 余剰キー331.8921.883–1.9051.8921.304–14
14新月 8.6(analyzer 版)順次ANSI+数字段331.8931.881–1.9091.8931.338–16
15月配列 T順次JIS 余剰キー331.9101.901–1.9201.9101.326–16
16月配列 U9 完成版順次JIS 余剰キー331.9191.915–1.9261.9191.308–16
17中指シフト月光順次JIS 余剰キー321.9251.917–1.9361.9251.315–17
18月配列 K順次JIS 余剰キー401.9331.920–1.9511.9331.272–20
19ミズナラ順次JIS 余剰キー331.9351.923–1.9501.9351.3010–22
20月配列 4-698 幸花順次JIS 余剰キー331.9401.929–1.9781.9401.3215–21

ローマ字系と JIS かなの代表値

#方式ハード要件時間/かな打鍵/かな上位かな系(1.74)との差
28ローマ字 大西 + 短縮符号ANSI(周辺キー)2.1531.71+24%
29ローマ字(大西)ANSI(周辺キー)2.1561.71+24%
31ローマ字(Eucalyn)ANSI+数字段2.3761.71+36%
33ローマ字(Norman)ANSI+数字段2.5111.71+44%
34DvorakJPANSI+数字段2.5791.56+48%
44ローマ字(Colemak)ANSI+数字段3.0031.71+72%
45JIS かなJIS 余剰キー3.0061.21+72%
52ローマ字(QWERTY)ANSI+数字段3.1951.71+83%
55ローマ字(Canary)ANSI+数字段3.3171.71+90%

JIS かなが 45 位まで落ちるのは、打鍵数(1.21 打/かな)は最少クラスなのに、かなが数字段を含む 4 段 50 キーに散っていて、キー労力と小指負荷(34.2%)が跳ね上がるからです。打鍵数だけを見ると評価を誤ります。

日本語入力 56 方式の統一評価。推定時間/かなを横棒グラフで昇順に並べた図。上位に新下駄・親指シフト NICOLA・月見草・薙刀式・新月 ANSI30 が並び、ローマ字系は 2.1 以降に固まっている。各バーには 95% 信頼区間のエラーバーが付いている

図には全 56 方式を推定時間/かなの昇順で収録しています(エラーバーは 95% 信頼区間、赤破線が有意差の壁、灰点線が「隣接 2 配列だけで見れば有意」な弱い壁)。


3. 壁と同格グループ

日本語では、厳密な壁は 1 本も引けなかった

上に書いた厳しい定義では、壁は 0 本、同格グループは 1 群になりました。つまり「56 方式のうちどれが速いか、この方法では確定できない」というのが形式的な答えです。

ただし、これは 1 か所だけの取りこぼしによるものです。境界候補は 月配列 3-226(2.107)/ ローマ字 大西 + 短縮(2.153)、すなわち かな系とローマ字系の境目 にありました。ここを壊しているのは 15 条件のうち「同指ペナルティを 2.0 に上げた 1 条件で、月 3-226 と大西が逆転する」という 1 組だけです。

それを除けば、かな系とローマ字系の間には 15% 以上の差があり、実質的な境界はそこにあります。

上位のかな系が分かれない理由

信頼区間は ±0.02 程度と十分に狭いのに、上位が分かれません。理由は統計(コーパスのばらつき)ではなく、モデル(同時押しの重さ β) です。

β2 キー同時押しの重さ上位の顔ぶれ
β = 0.3単打 1.3 回分(同時押しが軽い)1 位 NICOLA(1.626)、2 位 新下駄(1.648)、3 位 薙刀式 ortho(1.671)。新月 ANSI30 は 7 位、新月 現行は 12 位
β = 0.6(主表)単打 1.6 回分1 位 新下駄(1.743)。新月 ANSI30 は 5〜7 位、新月 現行は 12 位
β = 1.0単打 2.0 回分(同時押しが重い)1 位 月見草(1.804)、2〜4 位 新月 ANSI30、5 位 新下駄、8 位 新月 現行。NICOLA は 14 位、薙刀式は 22・24 位まで後退

「2 キー同時押し 1 回は単打何回分の時間か」を直接ミリ秒で測った研究は、文献調査でも見つかりませんでした。 この空白がある限り、同時押し系と順次打鍵系の順位は決められません。β を 3 通り振っているのは、この空白を埋める代わりです。

新月配列の位置

  • 新月 ANSI30 案(30 キー・順次打鍵・周辺キー不使用): 5〜7 位、1.815〜1.825。第 1 群。
  • 新月 v8.6(現行 32 キー): 12 位、1.887。第 1 群。
  • 上位 4 方式(新下駄・NICOLA・月見草・薙刀式 ortho)は、いずれも JIS の余剰キー・親指キー・ortho/split のどれかを要求します。
  • 新月は ANSI 30 キー + 順次打鍵(同時押しなし) だけで同じ帯に入っています。Windows / Linux では hazkey のローマ字テーブルを差し替えるだけで導入でき、キーボード配列そのものは触りません。

つまり ハードを解禁して得られるのは「同格グループの中で動く自由」だけ で、群を 1 つ上げる効果はありません。


4. 限界と注意(ここを読まずに数字を引用しないでください)

4-1. 同時押しの実時間は未計測

前述のとおり、同時押し 1 回の実時間コストは文献にもありません。新下駄・薙刀式・親指シフト・飛鳥の順位は β 次第で 1 位〜27 位まで動きます(順位範囲の列を参照)。「新下駄が 1 位」も「月見草が 1 位」も、どちらもこのモデルの中では等しく成立します。

4-2. 双月・双星(両手同時押し)の扱い

自作の両手同時押し方式である双月 v4.1 / v6・双星は、左手 1 音節 + 右手 1 音節を同時に押す本来のストローク(最大 4 かな・最大 8 キー)として評価しました。

  • ストローク/かな は 0.47〜0.49 で全 56 方式中の最少。
  • しかし β の影響が最も大きく、β=0.3 で 2.29〜2.84(Dvorak 級)、β=0.6 で 2.96〜3.67、β=1.0 で 3.87〜4.77。
  • さらにこのモデルは、連続ストロークで同じ指を使うことを同指連続(×1.6)と数えるため、全指を離して押し直す両手同時押しには構造的に不利 に働きます。

順位範囲が 28〜56 位と極端に広く、このモデルでは双月・双星を評価できていない と考えるのが正直なところです。順位表の 40 位・47 位・56 位という数字は、そのまま「遅い」と読まないでください。

4-3. 私的コーパスの汚染と、その対処

当初の私的コーパス(18 万かな)を調べたところ、同じ 30 文字の並びが 3 回以上出現する部分が全体の 44.7%(同一文が 267 回繰り返されている箇所すらありました)を占めていました。定型文の繰り返しです。

文単位と 20 文字窓で重複を落として 18 万 → 9.2 万かな に清浄化したところ、それまで上位にいた「ゃ」「ろ」が上位から消え、汚染版が推していた最適化案は繰り返しの産物だったと判明しました。

対処として、主表は公開コーパス(15 万かな)で計算し、私的コーパスは対照(順位の再現性チェック)にのみ使っています。 上位方式の順位差は主表と対照で ±2 以内、最大の差は JIS かなの −5 と ミズナラの −7 でした。

4-4. 「動作/かな」という指標に注意

既存のベンチマークツール(eswai keyboard analyzer)の「動作/かな」は、前置シフトを本体と束ねて 1 動作と数えます。この数え方で月系(1.11)と新下駄(0.96)を並べると、月系が 15% ほど有利に見えます。本ベンチマークでは前置シフトを 1 打として別に数え、同時押しだけを 1 動作としています。過去のベンチ表を読むときはこの差を割り引いてください。

4-5. 実測ではない

これは打鍵時間モデルによる推定であり、実際にタイピングした計測ではありません。参考として文献の実測値を挙げると、英語ステノは 225〜360 WPM、日本語ステノ(ステノワード・はやとくん)は習熟者で 300 字/分超と報告されており、辞書系はキー配列モデルでは評価できない別次元 にあります。「かな配列を超える」にはこの世界に行くしかありませんが、それは配列ではなく別の技能です。


5. まとめ

  • ハード制約を外しても、新月配列を有意に超える日本語入力方式は見つかりませんでした。上位のかな系はすべて同格です。
  • かな系 vs ローマ字系の 15% 以上の差 が、このデータで唯一はっきりしている境界です。
  • 同格グループ内の順位は、統計ではなくモデルの仮定(同時押しの重さ)で決まっています。 実打鍵時間を測らない限り、そこは埋まりません。
  • 新月配列の売りは「1 位であること」ではなく、「一番安い装備(標準 ANSI キーボードの 30 キー・順次打鍵のみ・特別なハードもファームウェアも不要)で同格グループに入っていること」 です。

続きは以下をどうぞ。


データと再現方法

項目内容
評価器統一評価器 evaluate.py(Python)。時間モデルは Rust 実装 shingetsu_rs/src/model.rs と同一の数値・同一の思想
配列定義形式eswai keyboard_analyzer 形式の JSON(keys / conversion
トークン化analyzer.js の analyzeKeyboard と同じ(先頭 3 文字までの最長一致、半角化フォールバック、未変換は 1 文字読み飛ばし)
主表コーパス公開 150,024 かな(青空文庫『こころ』『坊っちゃん』+ Wikipedia 10 記事)
対照コーパス私的 91,875 かな(重複除去済み・内容非公開)
英語コーパス200,001 字(Pride and Prejudice + Wikipedia 2 記事)
除外「」と ゔ は打てない配列があるため全配列で除外
既定パラメータβ = 0.6、重みセット = 既定
信頼区間40 チャンク × 200 回ブートストラップの 95%
感度分析重み 5 セット(既定 / 同指 2.0 / 交互 1.0 / 小指 2.4 / E 平坦)× β 3 通り = 15 条件
評価対象日本語 56 方式(かな系 26・両手同時 3・英語配列 17 個のローマ字入力・ANSI 30 キー版新月 3 案)、英語 17 配列
測定日2026-09-13

配列定義のうち、月系 10 配列(月 3-226 / 4-698 幸花 / 5-315 / 5-532 / 5-680 / 朧月 / ミズナラ / 中指シフト月光 / 月 T / U9 完成版)は、配列 wiki と大岡俊彦氏の月配列一覧を出典に、月配列 2-263 の物理鍵・指配置テンプレートへ conversion のみ差し替えて定義しました。各配列表に明記のない濁点・半濁点・稀少仮名(ゔ・ゎ・ヶ・ゐ)は 2-263 の位置にフォールバックしています。この推測箇所は打鍵数にほぼ影響しませんが、厳密な再現ではありません。

規則が図から確定できなかった配列(月配列 Yx / ハイブリッド月配列 / 水草配列 / 弓配列)は評価対象から除外しました。文脈依存で後続シフト面の意味が変わる方式は、静的な「かな → キー列」対応表に還元できないためです。

新月配列の定義データ・設定ファイルは GitHub リポジトリ(MIT)で公開しています。

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